それを進化と呼べるか
日番谷冬獅郎は、大いに悩んでいた。 それはもう途轍もなく深く深く、海よりも深く悩んでいた。 護廷の十番隊隊長という責任ある立場になって、少々頭の痛い副官を持ってからも、これほどまでに悩んだ事はなかった。 それほどに深い悩みだった。 …少なくとも本人にとっては。 「隊長、大丈夫ですか? 何かここ最近、ずっと上の空っていうか―」 「松本…いや、大したことはねぇよ」 そんなことを言っても、いつも以上に深く刻み込まれた眉間の皺に、苦々しく眇められた瞳はそこにないものを見るように右斜め下を睨みつけ、ちいとも進まない筆を先刻放り投げた腕は胸元で固く組まれている。 さらに本日何度目になるか分からない重い溜息を長々と吐かれては、どんなに鈍い人間でも声を掛けずにはいられないだろう。 「何言ってるんですか、そんなあからさまに悩んでますって顔されたら、気になって仕事になりません」 「てめぇは日頃から仕事に気なんか入れてねぇだろうが」 「ひっどー!それが心配している部下に対して言う台詞ですか!?」 落ち込んでいる割に突っ込みは忘れない上司に憤慨する乱菊であったが、既に彼女の文句すら聞こえていないような様子で再び溜息をつく姿に些か本気で心配になってきた。 「先日の隊首会で、何か問題でも?」 「…そういうことじゃねぇ」 「じゃあ…」 乱菊から考えてみても実際ここ最近の尸魂界は平穏そのものであったし、仕事のほうも自分で言うのもなんだがいつもよりかは溜め込んでいない。寧ろ機嫌がよくてもいいくらいではないかと思うのだが。 しかし仕事の事でなければ、己の上司がそこまで沈み込む要因となるようなものを乱菊は一つしか知らなかった。 それは。 「―一護と何かあったんですか」 一護、と口にした瞬間、彼の形よくつり上がった眉がぴくりと動くのを目にして、ああやはりと乱菊は納得した。 小柄で美麗な姿とは反対に男気溢れる彼女の上司は、今恋をしているのだ。 随分と歳は離れているが(相手は現世に生きる少年なのだから当たり前だが)、その他諸々の障害も何のその、無事お付き合いを始めた二人はそれはもうらぶらぶで目も当てられないくらいである。 今までどちらかといえば硬派というか奥手というか、とにかくそういった面を全く見せなかった日番谷の恋人に対する甘々な態度(本人は隠しているつもりのようだが駄々漏れである)や時折見せる思慕の表情に、ああこの人にもこんな顔が出来たのねぇなんてまるで親心にも似たものを抱いてしまったりもした。 であるからこそ、彼が何かしら思いを馳せるのは仕事以外では彼の恋人―黒崎一護少年の事に他ならないのである。 「水臭いですよ隊長、何かあったなら言ってくださいよ!何だって相談に乗りますからー」 そう言ってみたところで簡単に打ち明けるとは思っていないが、それでも本心から出た台詞である。 尊敬する隊長は勿論の事、一護の事だって乱菊はかなり気に入っているのだ。上司の恋人と知っていてもついちょっかいをかけたくなってしまうほど。 そんな二人に何かあったのなら、口を出さずにはいられない。たとえ、所詮恋の悩みなど二人の問題でしかなかったとしても。 口で言う以上の真剣な気持ちが伝わったのか、はぐらかすでもなく日番谷はぽつりと言葉を返してきた。 「…別に何かあったとかじゃねぇよ。俺が勝手に悩んでるだけだ。…酷くくだらないことだがな」 「まぁ、恋愛の悩みなんてそんなものです。でも、隊長にとっては深刻な事なんでしょう?」 「あぁ、そうだな…しかし、何十年何百年生きてきて、今更こんなことで悩んでるっつーのが我ながら馬鹿らしくてな」 「隊長…」 自嘲気味に笑う日番谷に、けれど乱菊はなんだか感慨深い思いでいた。 「今更、なんてことはありませんよ。…それは、寧ろ成長したって事です。進化したって事ですよ」 「進化?」 「今まで知らなかった感情を、そうやってまた一つ知ったわけですから」 どれだけ長く生きていても、知らないことなどまだ山ほどあるのだ。 長い時間をかけて、一つずつ身につけていくのである。そうして少しずつ変わってゆく。 日番谷が思い悩む事、恋の悩みだってまた、無駄である事などなく自身を成長させてくれる筈だ。 「それにいいじゃないですか、一護の事だったらどれだけ悩んだって」 「まぁな」 少し困ったように、けれどこの日初めてほのかに笑った上司に、彼女も嬉しくなった。 ので、どこか浮かれたように、 「さぁて、それではそろそろ素直にゲロっちゃってくださいよ! 一体何を悩んでいたんですか?」 などと聞いてはみたのだが。 乱菊は失念していた。 例え相手があの日番谷冬獅郎であろうとも、ラブラブな恋愛真っ最中の人間の言う事など、まともに聞いてはいけないという事を。 「―一護が…」 「はいはい」 「一護が可愛すぎて―――。」 どうしようかと。 その直後、隊舎の廊下を奇声を発しながらものすごい勢いで駆けてゆく十番隊副隊長の姿があった。 |
〜2007.6. sakuto kamunabi BLEACH
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